年譜によるベン・マーフィ物語
BEN MURPHY as Jed "Kid" CURRY
1942年(0才) 3月6日、アルカンサス州のジョーンズボ口にべン・マーフィーは生れた。
父の名はパトリック、母の名はナーディンといった。マーフィー家は裕福な家だったし、弁護
士をしていた父は町の人々から尊敬されていたので、べンが生まれた日には産院へ花を持って
きたり、お祝いの言葉をかけにきた人々で行列が出来た程だという。
べンはこの様に大勢の人々から祝福を受けてこの世に生を受けた。
1943年(1才) べンは生れた時から、それは可愛い顔立ちをしており、髪の毛もクルッと巻毛
で病院の看護婦達が競って抱きたがっていた。
そして一日一日と日がたつにつれて顔立ちがより一層はっきりし、ますます可愛いくなってい
った。これは美人のママ、ナーディンゆずりだったが「私がべンの赤ん坊時代、この子が女の
子だったら、さぞかし美しくなるだろうに、と思った事が何度もありました。」と母は回想す
る。そのせいか、1才の頃のべンの写真を見ると、はて、これが男の子だろうか?と疑ってみ
たくなる様な様子である。大きなリンゴのアップリケのついたロンパースをはいていたり、ボ
ンボリのついた帽子をかぶっていたりで、どう見ても男の子には見えないのだ。
周囲の者からも「女の子の様に可愛い」とさんざん言われたおかげで、この頃のべンには女子
的性格が見受けられたので、さすがに父はあせってきて、妻に赤いドレスやボンボリをつける
のはよしなさい、と注意をした。
1947年(5才) べンも5才に成長すると、それまでの様な女の子的な可愛さを脱皮し、手のつ
けられない程のヤンチャ坊主になってきた。
自分の背の10倍もある大木に登って親たちをヒヤヒヤさせたり、どう猛なプルドックに向って
木片を投げたりするので、いつも生キズが絶えない有様。べンを赤ん坊の時から知っている近
所の人々は「あの女の子の様に可愛いかったべンが、こんなにイタズラなワンパク坊やになる
なんて想像もつかなかったわ」とあきれかえる始末だっだ。
1950年(8才) この年、ベンはジョーンズボ口の二ユー・ジョ―ンズ・プライマリー・スクール
に進んだ。小字校に入っても相変らずワンパクは直らなかったが、”絵を描く”という趣昧が
ふえた。あまりのヤンチャぶりに手を焼いた母が、小学校へ入ったのをキッカケにべンに何か
レッスンをつけさせて大人しくさせ様と考えピアノとバイオリンと絵のファミリー・サークル
に入会し、稽古を始めた。ところが、母のこのもくろみは入会―日目にしてもろくもくずれさ
ったのだ。ピアノのレッスン場に行ったべンは、先生の言う事など全然聞かず、やたらとピアノ
のキーを叩いて、「どうだい、僕うまいだろう」と聞き直る態度。この騒々しさに気も転倒せん
ばかりになった先生は、ナーディンに耳打ちした。「残念ですが、べンにはもっとガサツな趣
味を見つけてあげた方がよろしいようですわ」。
こんな嫌味をいわれても母はあきらめず、その足で絵を描くサークルへ彼を連れていった。最
初は例によってキャンバスに絵の具をぬりたくったり、自分の顔にヒゲをかいたり、目のふち
にくまをぬったりでみんなを呆然とさせたが、ここの先生はすぐには諦めず「今はどうしよう
もなく悪い子ですが、しばらく預って様子を見てみましょう」と好意的な提案をしてくれた。
そして、1ケ月、2ケ月と経つうちにべンはすっかりこの教師と親しくなり、言う事を素直に
聞く様になっていった。というのも彼自身絵を描く事が楽しくて仕方なかったからだ。それに
彼の描いた絵は未熟ながら可能性を感じさせる、という評判だった。父はこれをきいて「天も何
とか―物を与えてくれた様だと一安心した。
1953年(11才) 不安定なべンの精神状態もすっかり落ち着き、絵を描いたり野球チームを作っ
て快活明朗な少年に成長した頃、マーフィー家はこの思い出深いジョーンズボ口の町を離れな
ければならなくなった。父が仕事の手を広げたのでこの小きな町だけではもの足りなくなり、
都会への進出を計ったのだ。パトリックのいう都会とはシカゴだった。そして家族はその郊外
のヒンスデールに新居を構える事になった。生れ故郷であり、友達や知人の多いこの地を離れ
るのは非常に淋しかった。
しかし、他方ではべンは都会というものに限りない憧れを抱いていた。「こんなちっぽけな町
なんか隅から隅まで知りつくしちゃった。もっと大きな都会へ行って10階建てのビルや飛行機
が飛んでいる所を見たいな―」と常に言っていたのだがら、今度の転居は願ってもない幸福だ
ったが、やはりべンにもセンチメンタルはあってなつかしい故郷とそう簡車に別れる訳にはい
かなかった。
引越をする日の晩、べンはべッドの中でいつまでも眠れず親しい友人の顔や先生の顔を―人
づつ思い出しては遂には朝になってしまったという。
1960年(18才) べンにも大学進学の年がやってきた。アメリカの大学制度は日本とは大分異っ
ていて受験地獄はないが、卒業地獄がある。つまり入る時には自分の希望や目的にそった大学
に比較的簡単に入れる。しかし、大学時代に一生懸命勉強しないと容易には卒業出来ないのだ。
ジュニア・ハイスクール、ハイスクールと優秀な成績で通したべンはどこの大学へも進学出来
る資格を持っていたが、さていざどの学校を選ぶかとなれば、仲々の難題だった。父や母にも
勿論相談した。「私の希望としては経済学を専攻してほしいが、最終的には君自身が選択する
大学を信頼する」というのが父パトリックの意見だった。「すべては君の自由だ」といわれれ
ば、これ程むずかしい選択もないだろう。
迷いに迷った結果、べンが選んだのは政治学だった。父が弁護士だった影響もあるが、彼自身
も政治には大いに興味があった事もたしかだ。そしで政治学の権威であるローランス大学法律学
科に進む事になった。
1961年(19才) ローラス大学で順調な学生生活を送り、勉強も真面目ならば女の子とのデート
も熱心というドライな日々を過ごしていたが2年生の夏ごろから急に文学に興味をもち始め
てきた。凝り性のべンは一度関心を示すと徹底的に極をきわめないと気のすまない所があった。
彼を大きく感動させたのは主にロシア文学だった。ドストエフスキ―、トルストイ、ツルゲー
ネフ等がべンをとりこにした。彼はこれらの文学を片っ端から読破していったが、一つだけひ
っかかる事があった。それは彼がロシア語がさっぱり分らないという事だった。読んでいるの
は英語の翻訳だったのだ。「これではロシア文学の真髄には到底達する事は出来ない」と考え
その日からロ―ラス大学のロシア文学部の聴講生として口シア語を学びはじめた。
1944年(22才) ローラス大学のロシア文学学士号を獲得した彼に卒業の年がやってきた。この
時すでにべンは、「自分はこれから文学者になって更に研究を続けていこう」という道を決めて
いた。しかし「よく考えてみると文学者になるためにはたった一つの学士号では不満だ、とい
う事になりべンはもう一度文学の勉強をやり直そうと二ュー・オルリーンズ州ロヨラ大学に
進学した。べンはよほど勉強が好きらしくて、この年に同時に5つの大学にも籍を入れて、あ
ちこちと忙しくかけずりまわって授業を受けた。
おかげでロシア文学をはじめとして、英米文学、日本文学、フランス文学のすべてを学んだ。
1966年(24才) ロヨラ・カレッジの卒業式も近づいたある日、べンをリーダーとする文学部の
面々はフェアウェル・パーテイーの余興として何か寸劇をやろうという計画をたてた。
出し物はチェーホフの「ワーニャ伯父さん」だった。主役は勿論べン。ふざけながらやった芝
居だったが、反響は大したもので、べンはすっかり自分がいっばしの俳優になった様な気がし
てきた。
そしてこの年の夏には文学者への道も捨てて、役者になるため有名な演技研究所パサディナ・
プレイハウスに入所した。
1967年(25才) 彼の二枚目なルックスと学生時代に得た教養は周囲の注意をひき、プロとして
デビューするまでにはそれ程時間はかからなかった。特にサマーストックの際参加した「裸足
で散歩」「メアリー、メアリー」「ニューヨークの日曜日」等では好評をとり新人として注目
された。ぼつぼつテレピに出演する話が出てきたのもこの時期である。「ヴァージニアン」「ネー
ム・オブ・ザ・ゲーム」「ギジェットは15才」「スパイのライセンス」等にほんのチョイ役と
して出演した。
ここまでくればもうしめたものたった。やがて映画出演の契約も来る様になった。マイラ・ニ
コルス監督の大ヒット作品「卒業」にもほんのちょっと顔を出しているし、ルシル・ボール、
へンリー・フォンダのコメディ「合併結婚」にも出演した。べンは俳優としての自分に少しな
がら自身がついていた。
1969年(27才) ユニバーサルTVで新シリーズの西部劇に主演する役者のオーディションがあ
ると聞いたべンはさっそくとんでいった。「あんな新米がOKになる訳はないさ」という冷た
い言葉もあったが、べンは幸福の波にのっている時だったので、何となく大丈夫な様な気がし
ていた。そして結果は……主役の―人、ジェド・キッド・カリーに抜擢されたのだ。「まった
く俺はついている」ととび上って喜んだ。
1970年(28才) ティーン雑誌で"Most charming Boy"に選ばれた。
(『テレビジョンエイジ1973年臨時増刊号』より)